鶴舞の由来。
小湊鉄道と安田財閥、ゼネコン鹿島組の歴史物語。
鶴舞藩(つるまいはん)は、明治維新期の短期間、上総国に存在した藩。1868年に遠江浜松藩の井上家が6万石で移封され、1871年の廃藩置県まで存続した。藩庁は上総国市原郡(現在の千葉県市原市鶴舞)の鶴舞陣屋。
明治維新により、徳川家に駿河、遠江70万石が安堵されたことにより、既存の駿河・遠江の大名は上総に移封されたが、浜松藩の前藩主井上正直が上総鶴舞に移されて立藩した。正直が鶴舞藩知事として廃藩置県を迎える。
小湊鉄道は、東京湾岸の市原市から房総半島のほぼ中央まで伸びる39.1kmの路線である。全線単線非電化のため、完成当時の姿を残している場所が多い。鹿島は、大正期から現在まで小湊鉄道線のほとんどすべての施工にかかわっているが、このたび小湊鉄道と鹿島の資料から、幻の小湊駅の存在が明らかになった。
小湊鉄道線は、大正時代初期に養老川流域の地主や裕福な農家が中心となり、房総半島内陸部の振興を図るために鉄道敷設を計画したことに始まる。現在の内房線五井駅(市原市)から鶴舞を経て外房の小湊(鴨川市)に至るルートの免許が大正2(1913)年に認可された。
当時、沿線で最も栄えていたのが城下町鶴舞(現・市原市鶴舞)である。
鶴舞には、明治初期に鶴舞藩庁が置かれていた。明治2(1869)年徳川家が駿府藩を作って静岡に移ったことにより、浜松藩は転封。藩主・井上正直は家老・伏谷如水らを連れて鶴舞に来る。鶴舞という名前は、この地に着いた井上公が、高台から見た景色が鶴が両翼を広げて舞っている姿に似ていると、名付けた。明治4(1871)年の廃藩置県で鶴舞藩6万石は鶴舞県となり、木更津県を経て千葉県に編入される。
小湊鉄道線の建設に最も熱心だったのが、この鶴舞の地主層だった。彼等が中心的株主となり、大正6(1917)年5月、資本金150万円(現在の価値で約2億7500万円)の小湊鉄道株式会社が設立された。当初目標とした資本金は220万円(現在の価値で約4億円)だったが、第一次世界大戦の影響で資金調達は思うに任せず、資本金を下げて設立している。しかし、それでも資金は集まらなかった。沿線に当たる場所には山林地主はたくさんいたが、大株主となるような大金持ちはいない。小湊鉄道線の最終目的地である小湊の誕生寺(*4)は、当初千葉・東京方面からの参詣客を期待して大口の株を引き受けていたが、国鉄外房線(当時は房総線)が大正2(1913)年に勝浦まで開通しており、いずれ小湊を経由して鴨川まで延伸の計画(*5)があったこともあり、早々に撤退してしまう。
このままでは資金を集めることができない。鶴舞出身の奥村三郎が安田財閥系の九十八銀行(後の千葉銀行)頭取だった縁から、大正9(1920)年3月、安田善次郎(*6)宛の紹介状を書いてもらい、発起人の一人、永島勘左衛門が安田邸に日参、懇願し、ようやく出資してもらえることとなった。安田は信仰深かったので、この鉄路が誕生寺への参詣客を運ぶことを目的にしている事を聞いて、採算を度外視して出資したようである。大正13(1924)年には安田一族が小湊鉄道会社の6割以上の株を保有していた。
総力を挙げて受注
この小湊鉄道の工事を受注したのが鹿島組だった。
「五井町出津(現・市原市出津)が浜田慶造の郷里だったから入手した」と後に鹿島の社員が書いている。当時は第一次世界大戦後の不況で、丹那トンネル以外目立った工事もなく、地の利のある浜田がいれば受注に有利と踏んだのかもしれない。浜田慶造は元軍人で、鹿島組にいつ入社したかは定かではないが大正期に鉄道工事現場を歴任、津和野線などの施工に携わっていた。小湊鉄道線工事受注のため本店の工務係に所属。工事が始まると、五井出張所の助役(所長)として赴任している。
小湊鉄道線工事起工の4か月前、関東大震災が起こる。大礒や房総半島南端で1~2mの地殻変動があったと国土地理院のホームページには書かれている。「房総半島は平均1.8mも隆起し、南東方向へ2~3m移動した。線路も動き、軟弱地盤では排水用の土管が陥没(土地が隆起したため陥没したように見える)、橋台は倒れ、橋脚は折れ曲がった」と手記を残した鹿島組社員もいた。この当時房総半島の鉄道で鹿島が施工した区間はなかったが、社員は鉄道復旧工事や海底が押し上げられた港湾の排水、締切、掘り下げ工事などに駆り出された。
小湊鉄道会社で一年半にわたり測量を手伝った内藤関は、「小湊鉄道会社の波田技師長ほか皆いい人で、明るく楽しく仕事をすることができた」と後に語っている。それが、現在まで続く小湊鉄道と鹿島の繋がりのもとになっているのかもしれない。内藤は、1年半一緒に机を並べて測量や設計をしていた高田利三とは特に親しくしていたが、後に高田が小湊鉄道の建設部長になったと聞き、嬉しかったという。
大正13(1924)年1月11日、起工式が挙行され、小湊鉄道線の施工が始まった。
海から山に向かって
第一期工事区間の五井—里見間25.8kmは、養老川沿いの起伏の少ない場所であった。しかし距離が長いため、鹿島組はここを4工区に分け、それぞれに事務所を構えた。起点となる五井の出張所が一番大きく、そこに総括の真田三千蔵、助役の浜田慶造他、工務、倉庫、経理の担当者を配した。また8.6km地点の養老村山田に山田派出所、16.4km地点の明治村牛久に牛久派出所、23.8km地点の高滝村に高滝派出所を設置し、それぞれ工務担当1~2名を配した。請負金額は376,173円(現在の価値で約49億円)とある。五井は当時静かな漁村で、夏には海水浴の小屋がわずかに2,3立つ程度の場所だったが、今は東京湾岸の埋立地に連なる京葉工業地帯の一部である。
小湊鉄道線の第一期工事区間は、平坦とはいえ川沿いの鉄道である。この区間だけで大小合わせて26もの橋が架けられた。最長は第一養老川橋梁の93.3m(現在は架替で第三養老川橋梁が103.6mで最長となっている)。昭和38(1963)年まで日本最長だった阿賀野川橋梁(1,366m 新潟県。明治44・1911年)をはじめ数多くの鉄道橋梁を施工している鹿島にとっては、特に技術を要する難しい橋梁があったわけではないが、大日本帝国陸軍千葉第一鉄道連隊が訓練を兼ねて架橋を応援したという。橋脚は鹿島が施工し、上部工を鉄道連隊が人海戦術で施工した。
鉄道敷設工事は同年10月に終わり、追加工事として停車場(駅)の土木・建築工事、鶴舞発電所建物、五井停車場待合所、鶴舞停車場構内社宅などの工事を請け負っている。鶴舞の駅は、市街地から外れた田んぼの中に作られた。駅舎は海士有木(あまありき)駅から里見駅までの8駅は同じスタイルで作られた。小湊鉄道会社には、その設計図面が今も残っている。
また、鶴舞駅近くには現在でも発電所の建物が残っている。当時はまだ電気が広く普及しておらず、自前で発電所を作って駅舎などへ電気を供給するためだった。鶴舞発電所は大正14(1925)年3月に完成し、ディーゼルエンジンによる75kWの発電機が2機備え付けられ、小湊鉄道の駅舎などに電気を供給していた。昭和2(1927)年11月には近隣9か村に3,300灯を提供するが、昭和17(1942)年の配電統制令により、発電を終える。発電所の建屋としては20年足らずの使用だったが、しっかりした鉄骨造の建物はそのまま資材庫、休憩所などとして使われたとのこと。現在も当時の面影を保っている。